桜の散るころ、生徒に喰われた件。

前編

「あとは教室の戸締まりだけか……」
 母校で教鞭を取ることになった俺は、つつがなく一日を終えた。今日で一週間目、まだまだ慣れない。
『先生、恋人いるんですか−?』
 授業中に受けた質問が頭をよぎって、別れた奴の顔を思いだしてしまう。
 同じ大学だった恭一は、俺が教師になるのを嫌がっていた。生徒達が家に来るんじゃないかとか、プライベートな時間が奪われるんじゃないかとか心配し、そ れでも俺が採用試験に受かってこの学校に配属が決まると、「教師とはつきあえない」と別れを切り出された。あいつは中高生のときに教師受けが悪くて、今で もそのことを恨んでいるようだ。
 教職につくことがそんなに嫌だったのか、と思うと同時に、俺の個人的魅力ってそんなに少ないんだと落ち込んでしまった。恭一にとって俺は、気に入らない ところがあると切り捨てられるような存在でしかなかったのだろう。
 恭一に捨てられた俺は、なまじ人肌を覚えてしまったがせいか、一人で寝るときにさみしいという感情に苛まれるようになっている。
 それに別れてしばらくたった今、日に日に後ろが疼いてきている。はっきりいって欲求不満だ。
「かといって、生徒に手を出すわけにもいかないしな」
 ため息をついて再び戸締まり確認に戻り、誰もいないと分かっている教室をひとつひとつ覗いてまわる。
 中にはまだ居残っている生徒もいるので注意すると、ブレザー服姿の彼らは挨拶をして去って行く。
 今日、現国の授業をした三年の教室に残っている生徒がいることに気付いた。学ランを着て窓辺でほおづえをつき、暗くなりかけた外じっとを見ている。
(学ラン……?)
 変な感じがした。
 この学校の制服は男女ともブレザーだ。まだ制服が出来ていない高校一年生だろうか、それとも他校から部外者が紛れ込んだのだろうか。
 俺は教室に首だけ突っ込んで、得体の知れない生徒に声を掛けた。
「その制服なんだが、きみはもしかして一年生か? もう戸締りをするから帰ってもらえるかな」
 学ランを着た生徒は教室の入り口に立つ俺を見て、注意されたことが間違っているかのようにやわらかく微笑んだ。
「いいえ、僕はこの学校の三年生です」
 生徒と言い争うのはばかばかしいと思いながら、これには反論するしかなかった。どうせ、高校に受かって喜んでいる新入生の悪ふざけだろう。特に俺は新任 だから、なめられているのだ。
「なにを馬鹿な……。俺が生徒だった八年前も、制服はブレザーだった」
「いえ。もっと昔をご存じないですか?」
「え……?」
「そう、もう五十年くらいになりますね」
 若いかたはご存じないかもしれないですね。そう言って少年がくすりと笑う。「若いかた」などと呼ばれると、まるで俺がこの少年より年下のようだ。
 年齢に似合わない、時代がかった丁寧な口調。
 もしかして、という考えに行きつく。この学校は歴史が長く、特に校舎は古いもので去年県の指定文化財に登録されたばかりだ。たしか戦争でも焼けなかった と聞く。
「ゆ……幽霊……?」
「そんなふうに呼ばれたこともありました。僕は勉強をしたかった。けれど幼い頃からの病気で、十七歳の時にあっけなく発作を起こしてこの教室で死んでし まった。僕はもっと学びたかった。だから今でも、この教室で授業を受けているんです」
「授業を受けた? 俺も今日この教室に来たけど、お前みたいなやつはいなかった」
「昼間は誰にも気付かれないように隠れ、今は実体化しています。長い間さまよっていると、いろいろなことができるようになりますからね。今日は先生のプロ フィールと、短いエッセイについてでしたね。木瀬先生」
 ぞくっと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 今、俺は幽霊と話している。勉強への未練を断ち切れない、学生服姿の幽霊と。
 すぐさま背を向け、戸締まりをしようと鍵に手を伸ばした。
 教室に残っていたのは、下校をしていない生徒じゃなかった。それなら、幽霊だろうがなんだろうが知ったことではない。
 俺には関係ない、これは俺の仕事じゃない。
 まっすぐに職員室に戻ろう。なにも見なかった。非日常ならごめんだ。新任そうそう、なんて迷惑なことに巻き込まれたんだろう。
 カチリ、と音を立てて扉を閉めた時。
「待って下さい」という声が聞こえた。さっきの幽霊の学生だ。
「僕も、そろそろ楽になりたいと思っていたところだったんです。僕の望みを聞いてくれたら、この教室からいなくなります」
 こいつはなにを要求しているのだろうか。
 関わり合いたくない、俺はこんな奴と会っていない。この現実と向き合いたくなくて、俺はぶるぶると首を振った。
「俺は知らない。俺はここにこなかった。だからお前がこの教室に居座ろうが成仏しようが、好きにすればいい」
 言い捨てるようにして、その場を離れようと足を踏み出した瞬間、少年が一瞬の間に壁をすり抜け俺の前に現れた。やはりこの少年はこの世のものではないのだ、と確信した。
「あなたは、男性が好きな人でしょう?」
「……それがどうした」
 なぜわかったのだろう。
 俺は男しか好きにならない。だが恭一と付き合うまでは、好きになった奴には誰かほかの相手がいた。
 唯一セックス出来た相手は恭一だけで、あいつ以外に男を知らない。
 昔は、どうしてこんなふうに生まれついてしまったのだろうと、己の性的嗜好を恨んだものだが、最近はいかにも女のほうが好きだと振る舞えるようになっ た。
 あくまで振りをすればいいのであって、それが社会性というものだと思っている。友人同士、それに職場での会話。「彼女いないの?」「紹介しようか」など と話しかけられるたび、曖昧な薄ら笑いを浮かべることでしのいできた。そして、これからもそうするつもりだ。
「それがなんだ。きみにいったいなんの関係がある」
 胸を突き出し、精一杯虚勢を張る。幽霊だろうが、俺の性的嗜好に口出しする権利などないだろう。
それを聞くと、幽霊は胸に手を当ててほうっとため息を吐く仕草をした。安心した、というポーズだ。
「ああ、よかった。授業を受けているとき、そうなんじゃないかと思ったけれど。……僕も、なんです。僕は男なのに男の人が好きで、そんな者は世間的に少数 派だと気付いてからはものすごく悩みました。でも先生もなんですね。嬉しい。僕の願いを叶えてくれませんか」
 なんだか嫌な予感がする。
「なに、を……」
 喉から掠れた声が出て、額から汗が噴き出ているのが分かった。
 そんな俺の余裕のなさに気付いたのか、少年は口に手をあててくすくすと笑い出し、俺の右手を取った。骨張っているが、幽霊とは思えないほどあたたかな手 だ。意外だ、という言葉が頭の中に点滅するのを俺は感じた。
「幽霊(ぼく)が怖いんですね。こんなに震えて……。悲しいな、僕は今日あなたのことばかり考えていたのに。……先生は今日、恋人なんていないと言ってい た。 僕ではいけませんか?」
 そう言って、手の甲にちゅっと口付ける。
 だがこいつは幽霊、俺は生きている者。幽霊とセックスなんて、冗談じゃない。第一、俺自身が勃たないだろう。品良く柔らかに微笑む幽霊の手を振り切り、 俺は吐き捨てるように言った。
「こ、断る。離せっ」
 廊下の窓に目をやると、そこから覗く空が夕暮れを示す橙色から夜の紺色にじわじわと浸食されていくところだった。点検の時間はとっくに終わりに近づいて いる。
「俺は年下とやる趣味はないんだ。それに、あんただって若いほうがいいんだろう」
 一瞬、男子学生の形をした幽霊はきょとん、とした顔になったが、すぐに口の端を吊り上げ、にやりと笑んだ。
「いいえ、年上が好きです。なかでもお兄さんみたいな感じのひとがいい。先生は僕の好みだ」
 幽霊が一歩、足を前に踏み出し俺の目の前に来る。
「薄い茶色の髪に、眼鏡がよく似合う大人しそうなあどけない顔。瞳は子犬のようきらきらと潤んでいて、唇は桜貝のような淡いピンク色。みずみずしくてふれ たくなってしまいます」
 童顔だと言いたいのだろうか。自分の顔が年齢よりも若く見られるという自覚はあるので、ぐっと黙り込んでしまう。
 学生が不意にしゃがみ込み、俺のズボンの前を開けはじめた。チャックの音がジーッとして、制止する間もなく俺の性器が外気にさらされた。
「なにを……っ」
「はじめは抵抗しても、ここをさわると皆大人しくなる。……口に含むと尚更ね」
 そう言い終わると、幽霊が俺の性器を口に含む。生温かいものに急所が包まれる感触がした。
 蕩けるような感触だった。人肌と同じ温度の口腔で性器を包まれ、なんともいえない開放感に身をゆだねてしまう。次に学生のやわらかい舌が根元から先端に 這ってゆく。一番先までいくと亀頭をぱくりと食まれ、今度はちゅうちゅうと吸われはじめる。
 ひとしきり口での奉仕を終えると、学生は俺を見上げた。まるで美味しいものを食べた後の猫のように、舌を出して口に付いた唾液を拭っている。
「フェラチオは未経験?」
「だ、だからなんだ……っ、まだ大学を出たばかりなんだ。同じ性癖の男を見つけるのにも苦労したのに、そんなに経験豊富でたまるかっ」
 少年を見下ろしながら悪態をつく。
 こいつは長い幽霊生活の間に色んな男を手玉に取っていたようだが、俺は違う。俺には恭一しかいなかった。
 けれど、俺が教師になると聞いてすぐに別れを切り出すような情の薄い相手だ。口淫なんてしてくれた試しがなかったのだ。
「……そうだったんですか。じゃあ、僕がはじめて先生の性器を舐めたんですね。嬉しい……」
 口淫されているのは俺のほうなのに、まるで自分がされたような蕩けた表情で俺の足元に跪いている。
 嬉しい? いくら好みの男だからって、ここまでするものだろうか。俺はこいつと出会ってから初めて恐怖心が薄れるのを感じた。
「お前、変、だな……。今日会ってすぐの教師とセックスしたいとか言うし、そいつのちんぽを舐めて嬉しいっていうなんて」
「変でしょうか。でも、好きなひとに喜んでもらいたいと思ったから。今日はじめて先生を見た時よりも、今のほうが先生を愛しいと思っている。……好きです よ、先生」
「ははっ」
 とってつけたような告白に、思わず苦笑してしまう。
 幽霊に愛を告白されてしまったなんて、そうそうあるケースじゃない。帰ったら、今日あったことをSNSでつぶやいてみようか。きっと、誰も信じてくれな いだろう。
 俺が体を差し出せば、こいつは成仏すると言っていた。どうする、この生徒の姿をした幽霊とひとときの過ちを冒してしまおうか。誰も気付かなかったが生徒 でないものが、俺と交わっただけで綺麗さっぱりいなくなるんだ。後孔の疼きも、これで解消されるだろう。
 生徒と性交など考えもしなかったが、目の前の少年はこの世のものではないのなら問題もないだろう。
「どうしました? そんなにおかしいですか」
「……いや。笑ったりして悪かった。お前が無害なのはよくわかったよ。成仏したら、もうこの教室には出ないんだな?」
「約束します」
 また、あの上品な笑顔で幽霊が微笑んだ。
「じゃあ……、よろしく頼むよ」
 とうとう受け入れるという意思を示すと、壁に手を付き覆い被さるようにして口付けられ、最後まで喋れなかった。
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